瞑想と悟りに対するぼくの個人的見解

2017年9月16日

まず僕の立場を説明しておくと、

僕はアヤワスカを使って悟りへの入り口を見たぐらいで、瞑想を齧ったことぐらいはありますがまともに修行したことはありません。

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その上で僕の悟りについて思ったことを発表するので、瞑想に取り組んでらっしゃる方の助けになればと思います。

特に具体的な瞑想の手法等に関しての助言をするものではないです。

批判も受け付けます。

meshigakuitai.hatenablog.jp

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こんなはてブコメントがついてしまいました。

繰り返して言うと、僕は修行してませんし、悟ってもいません。

ちなみに

魔境とは・・・

瞑想等の精神的修行中に、幻覚がみえたり、人ならざるものに出会ったり、変な衝動に駆られたりすること。瞑想に変に期待していると、悟りと勘違いして深くハマっていきやすい。

魔境にはまった際は、スルーするのがよいとされる。

中国語の部屋パラドックスってご存知でしょうか。

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中国語の部屋とは・・・

中国語のすべての会話の対応マニュアルと、中国語を知らない人を部屋に入れる思考実験。

部屋の外の人は、その部屋に中国語でメッセージを送る。中の人はマニュアルから対応する中国語を丸写し(内容は理解していない)メッセージを返す。というもの。

中の人は全く中国語を理解していないのに、 中国語の会話が成立してしまう。

言語の”理解”とはなにか、人間だって本当に言語を”理解”しているのか、という哲学。

重要なのは中の人は何も努力していないのに、

①部屋を与えられることで、②「部屋としては中国語を理解している」こと。

このパラドックスを援用して僕が何を言いたいかというと、

①薬やサイコアクティブ物質を使ってでも、②悟れるならそれでいい、と僕は考えています。

もしも細胞レベルで組み替えられて突然悟りに連れて行かれるとして、「そんなのダメ!瞑想するの!」なんて人はいないでしょう。

楽に悟れるならそれに越したことはないわけです。

むしろ、苦行の末に悟りがあるとか、苦行することが高尚で偉くて、悟りっていうのは神秘的なものである、みたいな考え方こそ危険だと考えています。

精神的な作用や悟りが目的で、瞑想や苦行は手段のはずで、手段が目的化することこそ一番本来の目的から遠のくことだと思います。

また、なぜ瞑想が長続きせずに、魔境にハマってしまったり三日坊主になってしまうかというと、瞑想それ自体が楽しくないし、「本当にこの先に悟りがあるの?」「こんなのやっててなんか意味あるの?」という疑念が湧いてしまうからじゃないでしょうか。

そこで信心が必要になってくるわけです。

高名なお師匠様がおっしゃっているから、とか信仰している宗教の教えでは瞑想することが素晴らしいこととされているから、などのインセンティブがあると、瞑想に取り組みやすいと思います。

しかしこれは外的なインセンティブであって、「お師匠さんホンマかいな」と思ってしまうともう意味をなさないわけです。

そんなあなたにアヤワスカ

精神活動向きのサイコアクティブ物質を使うことで、瞑想それ自体が心地よくなってきて、強力な内発的なインセンティブになります。

本当の意味で”邪念なし”で瞑想することは難しいけど大事なんですね。

オチの付け方がわからなくなってきたのでここらで終わりにします。

構成を考えて記事を書くということは難しいけど大事なんですね。

追記

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こんなコメントをいただきました。

新しく記事にするほどでもなかったので追記で書きますが、

そもそも「悟った人が偉い」みたいなのは悟りたい人界隈だけのルールなので、

一般社会からみたら爪弾きものの可能性は高いですよね。

僕がアヤワスカ体験の終了直後に感じたのは、

「生きる楽しさ」と「生きる絶望」でした。

というのは、今まで見えていなかった世界が見えたので、世界が広がったような気がして楽しさを感じたのですが、

自分の精神世界がいくら深みのあるものになっても、社会は今まで通り平常運転するわけで、僕が色んなことを知れば知るほど僕の周りの人とは知見の差が大きくなるわけですから、絶望を感じました。

このへんの話はアヤワスカ体験について書かないと、イキってるだけに見えるのでやっぱり今度書きますね。

悟りにも同様のことが言えると思います。

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